2008年01月09日
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真魚、空海、遍照金剛、弘法大師 ・・・ 弘法大師空海の生涯を辿るための旅のヒント

弘法大師空海年表

和 暦
西暦
年齢
空   海   関   連   事   項
関  連  事  項
宝亀5
774
1
従来、護岐国多度郡、現在の善通寺のある辺りで誕生したといわれている。幼名 真魚。空海は多度郡の郡司の子弟であったと云われている。父は佐伯直田公、母は阿刀氏。

生家は善通寺伽藍の西に隣接、善通寺を管理する別当的な位置の家に生まれた、と推定する説もある。
一方、母方の阿刀氏の領域である多度津の海岸寺も空海誕生の地としての伝承をもっている。江戸時代には両寺の間で、弘法大師出生地が争われたそうである。

近年高野山大学の武内孝善教授によって、空海誕生地は讃岐ではなく畿内、という説が提出されている。
その論拠として
@讃岐国に阿刀氏が住んでいた記録が見当たらないこと、
A空海が誕生した当時の婚姻の形態は妻訪婚であり、母と子は結婚の形をとってから十年前後は母方の一族と生活をともにしていたと考えられていること、
B空海を出した讃岐の佐伯直氏は船を所有して交易活動を行っており、交易活動の拠点となる倉庫が住吉津にあったと考えられること、
などをあげられている。今は詳しく紹介することができないが、興味ある方は『弘法大師空海の研究』(吉川弘文館)を参照のこと。

6月15日、 不空三蔵入滅
不空は中国密教の大成者で恵果和尚の師。空海は入唐し不空訳の経典を多数請来。
空海は不空の生まれ変わりとされる。
宝亀9
778
5

最澄12歳で出家。行表を師として近江国分寺へ入る。
この頃泰範生まれる。
宝亀10
779
6

光定生まれる。
宝亀11
780
7

11月10日、最澄得度
天応1
781
8

4月、桓武天皇即位
延暦3
784
11

11月、長岡京への遷都
延暦4
785
12
讃岐の国学、あるいは国分寺に学んだ可能性もある。
国府のあるところには国学があり、郡司クラスの家柄の子弟が入学した。国学は地方官吏養成機関。
また当時都には大学が一つある。大学は貴族の子弟のみのものであり、基本的に五位以上か史部(ふみひとべ)の子弟のみ入学が許された。六位以下八位以上の子弟は試験に合格すれば入学を許可。
基本的に大学も国学も入学は、13才以上16才以下。

4月6日、最澄東大寺戒壇院で具足戒を受ける。

7月中旬、最澄比叡山に登り草庵を構える。「願文」を記す。

9月、
早良親王 廃太子
延暦7
788
15
都に出、母方の舅(おじ)阿刀大足について、論語、孝経・史伝・文章等を学ぶ。
阿刀大足は、桓武天皇の皇子伊予親王の持講(家庭教師)であったといわれる。

7月、最澄、比叡山に小堂(一乗止観院)を建て薬師像を安置。
延暦10
791
18
大学(明経科)に入学する。当時の明経道の博士は讃岐出身の岡田臣牛養。空海は岡田博士に学んだ可能性が高い。春秋左氏伝、毛詩、尚書等を学ぶ。





20歳すぎには大学を去り、山林での修行に入ったとされる。
『空海僧都伝』によれば当時の心境を「我習う所は古人の糟粕なり。目前に尚も益なし。況や身斃るるの後をや。この陰已に朽ちなん。真を仰がんには如かず」と伝えている。大学で学ぶことは古人の言葉の糟粕(酒の絞りかす)のようなもので何の役にもたたない、ということ。

当時僧侶となるには官許を必要とした。諸宗・諸大寺に毎年数を決めて得度を許し、育成は官費によった。僧侶となるものは、若くして寺に入って修行を積み、課せられた試験を受け合格したものだけが朝廷から正式に認定された。
空海の場合、山林修行に入ったといっても、正式な出家としてではなく私度僧(官許を得ず、僧侶を自称したということ)としてであった。
また「空海」という名が何時から使われるようになったのか、私度僧として山林に身を投じたときにすでに空海と名乗っていたのかはわかっていないようである。伝承に無空、教海、如空などの名も見える。

『聾瞽指帰』によれば吉野の金峰山や四国の石鎚山などで修行したことが伺える。
また後年、「小僧都を辞する表」(天長元年)において「弱冠(20歳)より知命(50歳)に及ぶまで山藪を宅とし禅黙を心とす」と述べていることからも、若い頃から一貫して山林を志向していたことがわかる。


延暦13
794
21

平安遷都
延暦16
797
24
12月、儒教・道教・仏教の比較思想論である『聾瞽指帰(後に序文と巻末の十韻詩を改定して三教指帰)』を著す。 12月、最澄内供奉十禅師に補仁



これより延暦23年の入唐前夜までその消息はわからない。後に高野山の下賜を請う上表文の中で、山林を駆け巡った若き日に高野に辿り着いた旨を記しているが、いつのことだったか。20歳代前半か。

一沙門より虚空蔵菩薩求聞持法を授かる。一沙門とは古くは大安寺出身の重鎮勤操と云われていたが、近時は同じく大安寺の戒明を押す説が有力となっているようである。もちろん多説あり、名もない私度僧だったのではとする説など様々に云われている。
求聞持法のテキストは善無畏三蔵の訳出によるが、入唐し善無畏にも師事した大安寺の道慈によって養老2年(718)には請来されている。空海は阿波の大瀧岳、土佐の室戸岬などで求聞持法を修したという。『三教指帰』の序文には、求聞持法の成就を感じさせる緊張感あふれる「阿国大滝嶽に躋攀し、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」 という文章が残されている。
四国における空海修行の地は後に四国遍路の札所として整備されていく。もっとも山林修行や海辺迂回の路(辺路)を巡る修行は当然空海以前からのもの。

この時期、『大日経』をはじめとする密教経典に出合った、といわれている。


延暦22
803
30
この年4月16日、藤原葛野麻呂を遣唐大使とする遣唐船が難波を出発したが、嵐のため航行不能に陥り帰還している。
この時のメンバーに空海は入っていない。


延暦23
804
31
3月28日、藤原葛野麻呂が再び遣唐大使に任命され、渡航の準備が完了。


この年得度。4月9日、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。

空海の得度に関しては20歳説、25歳説等古来様々に云われてきたが、現在は31歳得度・受戒説が有力となっている。
空海が遣唐使の一員に選ばれた経緯は不明であるが、先年の遭難で欠員が出来たためとも云われている。得度・受戒後すぐに入唐するということは、実に異例のことであったらしい。空海の得度・受戒は、遣唐使派遣に際して欠員を補うための臨時の処置であった可能性もあるようである。また、一私度僧であった空海が正式に得度・受戒し留学生として入唐することになる背景として、一説に、おじ阿刀大足が持講を勤めた伊予親王の推挙があったのでは、とも言われている。
空海の資格は、仏教研究を目的とする正規の留学僧(るがくそう 期間20年)。

5月12日、難波の津を出港。6月、博多津を出る。
7月6日、遣唐大使の乗る第一船で肥前国松浦郡田浦を出航、入唐の途につく。
最澄も同じく第二船で出航(最澄は9月1日に明州に着き、同26日、天台山に向かって出発。帰国は藤原大使と同じ)。

第三船、第四船は遭難。

8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着。遣唐使節であることを疑われる。おりしも福州の長官交代の時期にあたっており、新長官閻済美の赴任、そしてその指示を得るまで約50日間の待機を余儀なくされる。
大使藤原葛麻呂にかわり、福州の長官へ嘆願書を代筆(『大使のために福州の観察使に与うる書』)。
嫌疑が晴れ、船を赤岸鎮から福州へ廻航。10月3日福州に到る。

上記のように大使の代筆をしたり、この後大使一行が帰国の途に着くまで常に行動をともにしていることから、空海の入唐が単に長期留学のみならず、大使在唐中の書記官的役割を担っていたのではないか、とする説も提出されている。

大使以下23名の入京が許可されたが、その中に空海の名はなかった。これは当時、朝貢使の旅費等を唐朝廷が負担しており、入京人数にも制限があったためのようである。直ちに『福州の観察使に与えて入京する啓』を提出、願いが聞き届けられる。


およそ50年後の仁寿3年(853)に入唐した円珍の記録によれば、福州開元寺の寺主恵灌が空海の亡化をしって非常に嘆き悲しんだという。恵灌は空海を「五筆和尚」と呼びその異芸を称賛している。このことから、空海が一ヶ月間の福州滞在時に、おそらく旺盛な活動を展開したことが予想される。また円珍によれば五筆和尚の名は長安においても語られている。「五筆和尚」とは空海の多彩な書芸を称えた言葉。

11月3日、福州を出発し長安へ向かう。

12月23日、長安に入り、宣陽坊の公館を宿舎とする。


延暦24
805
32
皇帝の突然の崩御により、その服喪から大使一行の帰国許可が遅れる。

2月に入って大使一行に帰国許可がおり、11日長安をあとに帰国の途につく。空海、大使一行に玄宗皇帝製『一行阿闍梨碑文』を託す。

空海入京当時、西明寺に宝亀元年(770)に入唐した永忠がいた。永忠は大使一行と帰国の途につき、空海が入れかわって2月11日に西明寺へ入った。
永忠は大安寺出身で三論の学匠。帰国後、桓武天皇の勅命により近江梵釈寺に入る。後に大僧都となり僧綱の一翼を担った。空海帰国後も二人の間にはかかわりがある。


醴泉寺のインド僧 般若三蔵や牟尼室利三蔵に師事。梵語や婆羅門の教えを学ぶ。

般若三蔵は空海が恵果阿闍梨とともに師として名を上げている印度僧。空海は般若三蔵から梵語の経本、あるいは『大広方仏華厳経』『大乗理趣六波羅蜜経』『守護国界主陀羅尼経』『造塔延命功徳経』などの新訳経典などを授与されている。



5月頃、西明寺の僧5,6人とともに青龍寺の恵果和尚を訪ねる

恵果和尚は空海に対し、笑みを含み喜歓して「我れ先に汝が来たらんことを知り、相い待つこと久しかりつ。今日相い見ゆ、はなはだ良し、はなはだ良し。報名竭きなんとするに付法に人なし。必ず須らく速かに香花を弁じて灌頂壇に入るべし」と言ったと伝えられている。

これを受け、受法のための準備、供具の調達を行う。

密教の戒、発菩提心戒(三昧耶戒)を受ける。

6月上旬、大悲胎蔵の学法灌頂を受ける。このとき、胎蔵曼荼羅に投花して有縁の仏を求めると、花は中央の大日如来の上に落ちたという。続いて五智の灌頂を受ける。
さらに胎蔵系の梵字儀軌を伝授、諸尊と一体化するための観想智慧(瑜伽観智)を学ぶ。

7月上旬、金剛界の灌頂を受ける。曼荼羅に花を投じると今度も大日如来の上に落ちた。
金剛頂瑜伽経系の五部真言、密契、梵字梵讃を学ぶ。


「今、日本の沙門空海ありて、来たりて聖教を求むるに、両部の秘奥、壇儀、印契を以てす。漢梵差うことなく、悉く心に受くること、猶し瀉瓶のごとし」(呉慇『恵果阿闍梨行状』)
これより空海の受法の様子を知ることができる。空海が、漢語・梵語に通じていたため、受法は瓶の水を他の瓶に移しかえるようにすみやかに行われた。密教の受法には梵語の習得が不可欠であり、長安に入って後すぐに恵果和尚を尋ねず、醴泉寺のインド僧 般若三蔵に師事した理由も理解できる。


8月上旬、伝法阿闍梨位の灌頂を受ける(免許皆伝にあたる)。遍照金剛の灌頂名を授かる。
この日、青龍寺・大興善寺をはじめ諸寺の500人の僧を招き斎(昼食の接待)の席を設け、あわせて出家・在家者にも供養する。

8月中旬以降、曼荼羅や祖師図、密教法具の製作、経典の書写にあたる。宮廷画家李真など十余人の画師、二十余人の写経生、宮廷の鋳博士趙呉などが関わる。

恵果より阿闍梨付嘱物を伝法の印信として授かる。
空海は師恵果に袈裟と柄香炉を献上している。

12月15日、恵果和尚入滅(60歳)する。

1月23日 唐の徳宗皇帝崩御
1月28日 順宗即位










4月上旬、最澄越州において順暁阿闍梨より灌頂を受け、三部三昧耶の付法を受ける。密教経典も蒐集。





5月中旬、最澄、遣唐使船で明州を出発、帰途につく。













7月、最澄天台・真言の法文等を朝廷に提出。







8月、唐の皇帝順宗、皇太子に譲位。憲宗即位。



9月、最澄高雄山寺でわが国最初の灌頂を行う。





大同1
806
33
1月17日、弟子を代表し恵果和尚を顕彰する碑文を起草(『大唐神都青龍寺故三朝国師灌頂阿闍梨恵果和尚碑』)、この日碑が建立される。

この頃、判官高階真人入唐し長安に入る。空海ならびに橘逸勢、高階真人に帰国申請書(「本国の使に与えて共に帰らんことを請う啓」ならびに橘逸勢のための申請書「橘学生の為に本国の使に与うる啓」)を提出。

本来、空海・橘逸勢は20年の留学予定であった。遣唐大使も既に先年帰国しており、この時期にタイミングよく、なぜ日本の使節が唐にあったかであるが、高階真人の入唐は新帝への朝貢礼謁のため、という説や延暦23年の遣唐使船のうちの第四船である、とする説などが出されている。後者の場合は、遭難し長い時を経て唐、そして長安に至った、とする説、あるいは前年7月頃の再出発説などがある。


3月、長安を出発する。
4月、越州に到る。越州の節度使に書状(『越州の節度使に与えて内外の経書を求むる啓』)を提出し、その協力のもと経論等を蒐集する。
8月、明州を出航し帰国の途につく。


10月帰朝、九州の太宰府に滞在。

入京する高階真人に託し、『御請来目録』(10月22日付)を朝廷に奉進。
空海が請来したものは『御請来目録』に記載されたものだけで、新訳の経論等216部461巻、両部大曼荼羅や法具、阿闍梨付属物等々である。
空海はその中で、「闕期の罪、死して余り有りと雖も、ひそかに喜ぶ得がたき法を生きて将来せることを」と述べている。20年と決められた留学期間を2年に短縮して帰国したことは違法であり闕期の罪にあたる。空海もさぞかし不安であったことと思われる。一方得がたき法−密教の体系を請来した自負もそこには感じられる。

空海が請来した経論は、それまで日本に入っていたものとは殆ど重複していない、という。このことから空海が奈良時代に請来された経典類を熟知していたことが伺える。そしてその新請来の中心をなすのが中国密教の大成者、不空三蔵の訳出した経典類。

空海が提出したこの『請来目録』に逸早く注目したのは最澄である。『請来目録』をすぐさま書写している(現在国宝として現存)。そして数年後、空海が入京するとすぐさま経典の借覧を要請する。


空海は入京の許しが出るまでの数年間をこの地で過ごすこととなる。ほとんど空白の期間。それが闕期の罪によるものであったのかは不明。ただこの大同年間は、桓武天皇という後ろ盾をなくした最澄にとってもつらい時代だったようである。

1月、天台宗に年分度者2名が認められる。天台宗の公認。









3月17日、桓武天皇崩ずる。






5月18日、平城天皇即位。


























大同2
807
34
2月11日、大宰府の少弐(副官)田中氏の亡母の一周忌の法要の願文(「田少弐のために先妣の忌斎を設くる願文」)を表す。
その法要で空海は、千手千眼観音像をはじめとする十三尊の曼荼羅を描き、『法華経』『般若心経』を書写し供養している。また唐梵対書の『千手儀軌』を自ら書写して田中少弐に与えている。

4月29日、大宰府の牒により大同4年のはじめまで観世音寺に止住することとなる。

10月、伊予親王の変
大同3
808
35
6月19日付太政官符−空海の課役免除の手続きを取るように民部省へ申し送ったもの。


大同4
809
36
7月中旬、都に入り、高雄山寺に居を定める。「空海を京都に住せしめよ」という太政官符が和泉国司にあてられたものであるため、この時期空海が和泉国滞在していたことがわかる。一説に槇尾山寺。また高雄山寺は和気氏の私寺であり、最澄と深い関係を持つ寺院。したがって空海の入寺にあたっては最澄の計らいがあったとも云われている。

8月、最澄から密教経典12部55巻の借覧要請。

10月、嵯繊天皇が大舎人山背豊継を遣わし、新調の屏風に『世説新語』の抜粋を書かせる。

4月、平城天皇その位を皇太弟神野親王に禅譲。

4月13日、嵯峨天皇即位。皇太子は平城上皇の皇子高丘親王。
弘仁1
810
37

9月、最澄宛書簡(『風信帖』)で最澄、室生の修円と共に集まり「仏法の大事因縁を商量し、共に法燈を経て仏の恩徳に報ぜん」ことを呼びかける。実現したかは不明。

10月27日、朝廷に上表文(『国家の奉為に修法せんことを請う表』)を提出。これは空海請来の護国経典『仁王経』『守護国界主経』『仏母明王経』などによって、薬子の変に揺れた深刻なこの時期、国家安泰の修法を行う許しを請うものである。実際に修法が行われたかどうかはわからない。

「2、3の弟子を率いて日夜教授す」る。
この年、実恵に伝法灌頂の職位を授ける

9月、「薬子の変」鎮圧

上皇は出家。高丘親王は廃太子。新たな皇太子に大伴親王。

9月19日、大同5年を弘仁元年と改元。

10月、高丘親王出家し真如と名乗る。後に空海の門へ。
弘仁2
811
38
6月27日、『劉希夷集』四巻、『王昌齢詩格』一巻、『貞元英傑六言詩』三巻、『飛白書』一巻を実恵を使者として献上。

8月、『徳州皇帝真跡』『王陽詢真跡』『張諠真跡』他多くの書跡を嵯峨帝に献呈。

乙訓寺の修理・造営にあたる。約1年の滞在。別当に任命されての滞在であったと云われている。
乙訓寺は非業の死を遂げた早良親王が幽閉されていた場所であり、その怨霊鎮魂のためでもあった、との説もある。


弘仁3
812
39
2月頃、空海は僧綱へ乙訓寺の修理費の助成を請う手紙を送っているが、その相手はかつて長安西明寺に住していた永忠であるとも云われている。

6月7日、唐で学んだ製法で狸毛の筆4管を作製し、嵯峨天皇に献上。

7月、『急就章』『王昌齢集』等を嵯峨帝に献上。

10月、最澄は奈良興福寺の維摩会の帰りに弟子光定をともない乙訓寺を訪れ一泊、両界曼荼羅を拝している。空海は最澄に、乙訓寺から高雄山寺へ帰ること、体調がすぐれないため真言の法のすべてを最澄に付属することを伝えている。このことは最澄から泰範あての手紙によって知ることができる。

秋、乙訓寺で実った柑橘を自ら摘んで嵯峨天皇に献上する。

11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇。入壇者は、最澄、和気真綱・仲世など。

12月14日、胎蔵灌頂を開壇。入壇者に最澄、泰法、円澄、光定、泰範他、入壇者190名ばかり。空海帰国時の遣唐判官高階真人も入壇している。

高雄山寺に三綱(寺を統轄する三名の役職。大寺のみに置かれた)を定める。上座−杲隣、寺主−実恵、維那−智泉。

2月12日、嵯峨天皇、神泉苑で観桜の宴を催す。文献に現れるもっとも古い桜の花見とも云われている。現在の3月28日くらいか。


















弘仁4
813
40
正月、永忠にかわり『小僧都を辞する表』を代筆。

2月、高雄山寺において
円澄、光定、泰範らに『法華儀軌』一尊法を授ける。

3月6日、高雄山寺で金剛界の灌頂を行う。入壇者は円澄、光定、泰範他。

11月、40歳の参賀にあたって『中寿感興詩』を詠じる。40歳(中寿)、50歳(知命)などの節目を祝うのは当時の習わし。空海も関係者に記念の『中寿感興詩』を送り、また最澄を含め各方面から返礼の詩が贈られたもよう。

『中寿感興詩』やそれに関係する最澄の『久隔帖』などが資料となって、空海の生年を宝亀5年と知ることができる。


この頃一般的には、最澄の『理趣釈経』の借覧要請を断ったとされ、それが最澄と空海の決別につながっていく、と言われている。それぞれの事情があったにしても、筆授と面授という相承に関する考え方、思想的立場の相違が、やがては両者を分ける大きな差異となっていったことは疑い得ない。そのことを凝縮した形で象徴的に取り上げられてきたのが『理趣釈経』借覧問題なのだろう。
ただ近年の研究では、最澄が『理趣釈経』借用を依頼したことはない、とも云われている。またこの問題で空海が書き送ったとされる『叡山の澄法師、理趣釈経を求むるに答える書』は、最澄ではなくその弟子円澄宛である可能性が高いようで、年代もこの時期よりもう少し下るもののようである。
詳しくは今後の研究を待たねばならないが、この件に関しては、最澄・空海の交流に触れるネット上の主要サイトの多くが重要事項としてあげており、注意が必要かと思われる(最澄と空海の交友と決別に関心をもたれる方は、下記の高木、元氏、佐伯有清氏、竹内信夫氏の著作を参照ください)。


弘仁5
814
41
閏7月8日、『梵字ならびに雑文を献ずる表』を上進し、『古今文字讃』『古今篆隷文体』『梵字悉曇字母并釈義』等を献上。

8月30日、『沙門勝道山水を経て玄珠を瑩く碑並びに序』をあらわす。二荒山(日光山)を開いた勝道上人の生き方、行跡をたたえたもの。


弘仁6
815
42
正月10日、陸奥守として赴任する小野岑守へ選別の詩を贈る(『野の陸州に贈る歌ならびに序』)。

春から夏にかけて、密教経典流伝のため、甲斐、武蔵、上野、下野、日立などの東国へ弟子を派遣。多くの人(甲斐国司藤原真川、常陸国司藤原福当麻呂や徳一、広智など)に経典三十六巻の書写を依頼する。このとき密教流布の趣旨書である『勧縁疏』を弟子に持たせている。
徳一は法相宗の著名な学僧であり、また東国において民衆教化に勤め菩薩と慕われた人。最澄との間の「三一権実論争」は有名。空海へも密教への疑義を問う『真言宗未決文』を送っている。

同じ頃、西国筑紫へも経典書写の勧進を行っている。

10月15日、式部省の丞、笠仲守の先父の周忌の願文を撰す。

この頃『弁顕密二教論』を撰述。


弘仁7
816
43
2月、最澄、空海より借りていた『新華厳疏』『烏瑟渋摩法』などを返還。これより以降、書状のやり取りはもちろん両者が顔を合わせることはなかった。

6月19日、修禅の道場として高野山の下賜を請う上表文を提出。

7月8日、高野山を下賜する太政官符が紀伊国司へ下される。

7月、大安寺の勤操他が、高雄山寺において三昧耶戒を受ける。続いて両部の灌頂を授けられている。

8月15日、嵯峨天皇勅賜の屏風に揮毫し献上。

10月、嵯峨天皇の病気平癒を祈顧する。

最澄、円澄、円仁ら弟子を伴い東国巡錫の旅に出る


最澄と徳一との論争が始まる。
弘仁8
817
44
この年、泰範、実恵らを派遣して高野山開創に着手する。
高野山麓の丹生氏などの援助により、山上に「一両の草庵(一、二の簡単な建物)」が造られる。また山麓紀ノ川南岸に政所が設けられる。そこから山上まで山道が後に町石道となる。


弘仁9
818
45
11月16日、勅許後はじめて高野山に登る。翌年春頃まで滞在。

12月、藤原冬嗣、高野山の空海に燈油と礼裘(かわごろも)を贈る。

数年来の大旱魃
4月、藤原冬嗣より最澄に祈雨要請。
4月26日より3日間、叡山の僧侶すべてを率い祈雨修法。雨を得る。
弘仁10
819
46
春、高野山上に伽藍を建立するため、壇上の七里四方に結界を結び、七日七夜にわたる作壇法を修す。伽藍建立に着手し、始めに明神社を建立。

この頃より、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』等の教義書、文章論、詩歌論である『文鏡秘府論』、日本最古の漢字辞書と云われる『篆隷万象名義』などを立て続けに執筆している。


弘仁11
820
47
10月20日、伝燈大法師位を授けられる。


弘仁12
821
48
5月中旬、筑前王太守(筑前国司 栄井王)の風疾平癒のため7日間金剛般若経を転読。

5月27日、讃岐国の国司より朝廷に満濃池修築の別当に「百姓の恋慕する父母の如き」空海をあてるよう上申。
弘仁9年(818)に決壊し復旧がままならなかった満濃池の修築をわずか3ヶ月ほどで終える。
修築が短期間で成功したのは、工事に参加した民衆から慕われる空海の人望(宗教者として有名になった当地の郡司の子息への人気ということでもあるのでしょうね)、空海本人の土木工事の知識、あるいは渡来系技術者集団との交流があって高度な技術と知識を存分に利用できる立場にあった、ことなどが理由としてあげられている。

7月23日、朝廷より空海に新銭二万を与えられる。満濃池修築に対するものであったかは不明。
この7月、勅命により中務省に勤務。

空海が請来した曼荼羅をはじめとする図像は、この頃には傷みが激しくなっていた。この年4月より8月にかけて、両部の大曼荼羅の最初の転写本製作をはじめ、26点の仏画などが皇族、朝廷の協力を得て製作、あるいは修復される。空海請来の五祖の御影に龍猛、龍智像を加え、「七祖像」(東寺に現存 国宝)も完成した。

9月6日、「真言付法伝」を著す。

9月7日には完成した両部大曼荼羅や仏画の供養が行われた。

同じ9月7日、空海入唐時の遣唐大使藤原葛野麻呂(弘仁9年11月10日逝去)の追善法要。法要にあたり、葛野麻呂が遺した紫綾を用い、金銀糸で刺繍を施した「理趣会十七尊曼荼羅」を製作。

11月、藤原冬嗣に隠遁の意思を告げる。


弘仁13
822
49
2月21日付太政官符で南都東大寺に灌頂道場真言院が設立され、空海に修法の命がくだる。
官符には「国家のために灌頂道場を建立し、夏中および三長斎月に息災、増益の法を修し、もって国家を鎮ましむべし」とある。

この年平城上皇が空海より潅頂を受けたとされる。

6月4日、最澄入滅。56歳
6月11日、比叡山に大乗戒壇院の設立が許可される。

平城上皇、空海より灌頂を受ける。
弘仁14
823
50
正月、官符により空海に東寺が下賜になる。

4月24日、淳和天皇の即位を奉賀する表を奏上。

10月10日には東寺に真言僧50人を住せしめ、密教を学ばせることを命じる旨の太政官符。
10月10日、真言密教を学ぶものの経律論三学を規定した『真言所学経律論目録』、通称『三学録』を朝廷へ提出。これは真言を学ぶ者にとって必須の経・律・論424巻を明示したもの。

10月13日、勅により宮中皇后院において三日三晩に及ぶ息災法を修す。

12月23日、勅により清涼殿で大僧都長恵、小僧都勤操とともに大通方広の法を修す。

4月16日、嵯峨帝、大伴親王に皇位を譲る。

4月27日、淳和天皇即位
天長1
824
51
2月、勅により神泉苑で祈雨の修法を行う。ちなみに生涯に祈雨法を修すること51回とも云われる。

3月2日、東大寺において蔬飯(あおものをあしらったごはん)を設け、三宝に供養する。

3月26日、小僧都に任命され僧綱の一員となる。
得度は公認制、僧尼は国家の統制下に置かれたこの当時、僧尼を管理する官として僧綱が設けられていた。この当時の僧綱は、僧正、大僧都、小僧都各1名、律師4名と決められていた。そのうち僧正はたぶんに名誉職的で置かれないこともあったらしい。制度的に現在とは全く異なっている。

6月16日、造東寺別当に。

9月27日、和気真綱、仲世の上表により高雄山寺が定額寺(私寺が国家公認となり官寺に準じたあつかいとなるもの)となった。寺名も「神護国祚真言寺」となり、真言僧14名を置き、また毎年年分度者(国家より公認された出家者。各宗派に人数が定められている)一名が許された。正式な真言宗の成立はまだ後のことであるが、このとき公認されたと考えてよい。

10月22日、笠仲守の先妣追善法要のため「大日微細会曼荼羅」を制作。

7月7日、平城上皇崩御
天長2
825
52
2月14日、高弟(甥でもあった)智泉が37歳の若さで逝去。

4月、東寺講堂建立。

閏7月、朝廷の命により炎旱疾病対策として東宮で『』仁王般若経』を講説。この時の講説が『仁王経開題』。その中で、国とはそこに生きるすべての生きものと環境とを合わせたものをいい、この二つを護り、災いを払って福を招くことが「護国」の意味である、と説いている。

9月、『大和州益田池碑名并序』を撰す。

11月28日、嵯峨上皇の五八(40歳)の賀。
天長3
826
53
11月、東寺の造塔に着手。



天長4
827
54
正月、淳和天皇の病気平癒を祈るために東寺・西寺で薬師悔過が修せられる。

3月、下野の広智禅師に十喩詩を贈る。

5月、笠左衛佑の亡室の為に大日如来一印の曼荼羅一鋪五幅を制作、神護寺で法会を行う。このとき『大日経』を講じている。

5月、大極殿において百僧とともに祈雨の修法を行う。

5月28日、大僧都に任じられる。


天長5
828
55
2月、鎮東按察使として陸奥・出羽の東国へ赴任する伴国道へ餞別の詩、秘録三軸、加持した神薬を贈る。

3月、摂津大輪田の造船瀬所別当に任じられたとも伝える。

12月、『綜藝種智院式并序』をあらわす。綜藝種智院は空海が東寺の東側に創設した私立の教育施設。庶民にも教育の門戸を開き、綜合教育を旨とし、また教師にも学生にも完全給費を実施というまさに理想的な教育機関。ただし空海入定後、程なく閉校となっている。なお、その開設はこれより数年さかのぼると云われている。


天長6
829
56
11月、大安寺別当に補任。

この年、和気真綱、仲世、高雄山寺(神護寺)を空海に付嘱する。


天長7
830
57
淳和天皇、各宗にそれぞれの宗義要旨を提出するように勅を下す。
それに答え空海は『秘密曼荼羅十住心論』十巻、『秘蔵宝鑰』三巻を撰述。『秘蔵宝鑰』は『十住心論』の略論とも言われている。


天長8
831
58
5月末、病(悪瘡)。
6月14日、大僧都を辞する旨を上表するが、許されず。

9月、比叡山の円澄、道忠、徳円ら十数名、真言の付法を請う書状を空海に送る。その受法は適えられたという。


天長9
832
59
正月14日、宮中における金光明最勝会ののち、紫宸殿において論義。護命、修円、豊安、明福らと列席。

8月22日、高野山において最初の法要、万燈万華会が行われる。
その願文中の言葉、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願も尽きなむ」は有名。


11月、高雄山寺を弟子実恵、真済らに依託、高野山に隠棲。穀物を断って坐禅にふける日々


天長10
833
60
高野山金剛峯寺を弟子真然にまかせ、実恵に後見させる。

2月、淳和天皇譲位
3月6日、仁明天皇が即位
承和1
834
61
正月、勅を受け中務省で修法を行ったと伝えられる。

2月、東大寺真言院で法華経を講釈した、と云われている。
また般若心経秘鍵を講じた、とも。『般若心経秘鍵』は空海最晩年の著作でもある。

12月19日、毎年正月宮中において行われている金光明最勝会において、別に真言の修法を行いたい旨を上奏、29日の官符で許される。これが、後七日御修法(ごしちにちみしほ)である。宮中における国家鎮護を願う公的な行事が真言の法をもって制度化された、ということ。後七日御修法は現在も東寺に場所をかえ、正月8日からの一週間執り行われている。

12月24日の官符で東寺に三綱(寺を統轄する三名の役職。大寺のみに置かれた)を選任することが許される。


承和2
835
62
正月からは水分までも絶っていたと伝えられている。

1月8日より宮中で後七日御修法を行う。その後恒例となる。


1月22日、真言宗の年分度者3人を申請。許される。

2月30日、金剛峯寺が定額寺として認められる。

3月15日、高野山において諸弟子に遺告を与える。

3月21日、高野山で入定

3月25日、仁明天皇勅使を遣わし喪を弔う。喪料が施される。
また淳和上皇は弔書を送り弔意を表す。

10月、嵯峨上皇、挽歌を賜い哀悼する。

承和7
840


5月、淳和上皇崩御
承和9
842


7月15日、嵯峨上皇崩御
7月17日、承和の変勃発

8月、橘逸勢、遠江国板築駅で没。
天安1
857

10月22日、真済の上奏により、空海に大僧正を追贈。

貞観6
864

3月27日、清和天皇、法印大和上位を追贈。
3月27日、最澄に法印大和上位を追贈。
貞観8
866


7月12日、最澄に伝教大師、円仁に慈覚大師の諡号を賜う。





延喜21
921

10月27日、東寺の長者であった観賢の申請により、弘法大師の諡号を賜る。






弘法大師空海年表について

ネット上を見渡しても弘法大師空海関連の詳しい年表の類を見かけませんので、拙いながら作成を試みました。まだ取り敢えずの段階で、完成には程遠いものです。素人のやることですので間違いなど多いかも知れませんが、少しずつ充実させていければと思っています。弘法大師空海に関するサイト1をはじめ当サイト内に紹介しております多くのページをあわせてご覧ください。

年表作成にあたり下記の書籍・論考等を参照しました。参照というよりは、その成果の一部を紹介させていただく、という方が確かです。一々どの項目がどの著作による、などということをあげませんが、この年表は諸先生方のご研究の賜物です。と云っても文責はすべて管理人にあり、誤りや不適切な表現があれば、それは私自身の責任によるものです。もしそのような点にお気づきの方がありましたら、お知らせいただければ幸いです。
ここで参照させていただいた書籍はこれまでの空海研究として代表的なものばかりです。一部絶版となっていますが、普通の公立の図書館・資料館で閲覧可能なものがほとんどです。多くの方が実際に手にとって目を通されることを望みます。空海スピリチュアルの「空海関係出版物」には2000年までに出版された書籍が紹介されています。興味ある方はそちらもご覧になってください。
なお管理人は、残念ながら大学や研究機関の図書施設を利用できる環境になく、下記参考文献の中で挙げられている学術論文や多くの資料にまでは眼を通すことができていません。足りない部分は少しずつ補って行きますので、どうぞよろしくお願いいたします。更新は年表右上の日付でご確認ください。

2003/06/28



暦について

歴史データベース on the Webは「宇宙の誕生から現在までの約6万6千件の歴史データ」です。様々な使い方ができるのですが、例えば、「年代(和暦)で選択」の頁で空海出生の宝亀5年、入定の承和2年を入力すると、空海関連の記事を含む世界中の出来事181件が表示されます。弘法大師空海が生まれ兜率へ旅立つまでの期間がどのような時代であったのか、世界史の中で捉えてみるのも興味深いことです。因みに宝亀5年6月15日は西暦774年7月27日、承和2年3月21日は西暦835年4月22日にあたるようです。「日本」や「仏教」といった分類での表示も可能となっています。
暦関係ではsuchowan's Home Pageというサイトもあります。暦の変換も容易ですので上のような弘法大師に関する日付の計算も簡単ですし、 歴史データ検索で「空海」などと入れてみることも出来ます。


交友について

空海の生涯をたどると最澄(傳教大師)との交流を抜きにすることができません。ここで傳教大師や天台の教えを知るための関連サイトを紹介する余裕はありませんが、まず天台宗公式サイトである
天台宗悠遊塾比叡山を歩くは必見かと思います。また天台宗の中に全国の寺院天台仏教青年連盟に「天台宗関連寺院 インターネット巡礼」があります。
最澄と空海の交友を語るときによく名前が出てくる光定に関しては、四国天台仏教青年会に「別当大師光定」のページがあります。光定は最澄の高弟として傍らに仕え、最澄入滅後も天台の発展に尽力された方です。その著書『伝述一心戒文』は空海を読み解くための史料としても重要なもの。かげまるくん行状集記本朝寺塔記比叡山延暦寺東堂の旅戒壇院」には、光定の『伝述一心戒文』を読み解きつつ大乗戒壇設立の流れが記されています。
奈良国立博物館の名品紹介「書跡」中に、年表でも名前を出しました最澄直筆の書簡『
伝教大師筆尺牘 久隔帖』が紹介されています。
いずれ最澄と空海の交友に関しての頁も作れれば、と考えています。

最澄、空海との関わりでよく名を知られる会津の徳一。民衆に菩薩と慕われた法相宗の高僧徳一は戒律にきびしい清僧としても有名で、空海は「聞くなら徳一菩薩は戒珠玉の如く、智海泓澄たり」と書き残しています。徳一に関しては、ようこそひでの部屋への「慧日寺資料館」の中「
徳一という僧侶」やもろ式電脳徳一などを参照ください。
参 考 文 献
タカギシンゲンシ
 高木訷元著作集 第4巻 空海思想の書誌的研究
1990
吉川弘文館
 空海―生涯とその周辺
1997
吉川弘文館
 空海と最澄の手紙
1999
法蔵館
高木訷元氏・岡村圭真氏編
 密教の聖者空海(日本の名僧シリーズ)
2003
吉川弘文館
竹内信夫氏著
 空海入門 弘仁のモダニスト
1997
筑摩書房
武内孝善氏著
 弘法大師空海の研究
2006
吉川弘文館
佐伯有清氏著
 最澄と空海 交友の軌跡
1998
吉川弘文館
上山春平氏著
 空海 (次の著作集にも収録)
1981
朝日新聞社
 上山春平著作集 第8巻 空海と最澄
1995
法蔵館
上山春平氏・森浩一氏編
 空海を解く―その思想と背景(四国空海シンポジウム)
1984
徳間書店
五来重氏著
 空海の足跡
1994
角川書店
五来重氏編
 山岳宗教史研究叢書3 高野山と真言密教の研究
1976
名著出版
石田尚豊氏著
 空海の起結 −現象学的史学−
2004
中央公論美術出版
上垣外憲一
 空海と霊界めぐり伝説
2004
角川書店
渡辺照宏氏・宮坂宥勝氏著
 沙門空海
1967
1993
筑摩書房
宮坂宥勝氏著
 空海曼荼羅
1992
法蔵館
 宮坂宥勝著作集 第5巻 空海密教
1998
法蔵館
 空海 生涯と思想
1984
2003
筑摩書房
松長有慶氏著
 松長有慶著作集 第3巻 空海思想の特質
1998
法蔵館
 大宇宙に生きる 空海
1999
中央公論新社
 空海・心の眼をひらく ('85集英社刊『高僧伝4 空海』の改題改訂)
2002
大法輪閣
頼富本宏氏著
 日本の仏典2 『空海』
1988
筑摩書房
 空海と密教
2002
PHP研究所
 空海の歩いた道 残された言葉と風景
2003
小学館
金岡秀友氏編
 空海辞典
1979
1999
東京堂出版
順 不 同

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